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#19 「高校2~3年時代(宇和島南高校)6」

2021.12.31 更新

児島有一郎

高校2年の夏休みも終わり、全国大会の成績も奮わなかったので何となく脱力感がありました。中学の時は大会に出場して敗れても、奨励会と言う上の目標がありましたが、高校の大会では何か中学の時とは違う感覚でした。将棋の勉強もそれ程頑張っていないと言う気持ちもありました。この時期から高校を卒業するまでが、今振り返っても何となく目標もなく過ごしてしまった時期でした。学校生活の方は担任の(阿部先生)が数学の先生で、三者面談の時に数学が出来るので勉強が出来るのかと思ったら、他の成績を見て驚いたと言われました。この頃の成績は数学・社会(世界史)が80点台、理科が70点台でしたが国語・英語の文系が30~50点位と相変わらず出来ませんでした。このクラスで覚えている事は、私は歴史が好きなのですが世界史は、長い名前のヨーロッパ人の名前を覚える事が苦手で日本史程は好きにはなれませんでした。クラスの女の子で西川恵子さんという子がいて世界史はいつも90点台でした。私は何でそんなに出来るのと聞くと三国志が好きでそこから世界史が好きになったと言われました。40才を過ぎてから三国志を読みましたが、確かに面白くて、もっと早く読んでいれば良かったと思いましたし、子どもの時に出会うもので好きな事が変わるのだなと思いました。

高校2年の時に思い出に残っている事を書きます。1つは夏休みに宇和島南高の同級生3人で須ノ川公園(今の愛南町)にキャンプに行きました。当時ですからキャンプ道具も良いのもではなく、しかも皆キャンプ素人ですから、夜は藪蚊に襲われて寝られませんでした。寝られないので、駐車場で話しているとK君が財布の中から1円玉を地面に投げているのです。どうしてと聞くと1円玉で財布が重いから捨てているというのです。アルバイトでお金を稼ぐ事が身に染みている私には考えられない行為でした。今でも須ノ川公園の前を通るとその光景が思い出されます。

2つ目は正月2.3日に松山三越で開催されていた将棋祭りの席上対局に出場させてもらった事です。県の高校選手権の優勝者が対局出来る事になっており、1月3日に日程が組まれていて出場依頼が来たのですが、私がこの年も年賀状配達をする事になっていて、当時は年賀状の配達は2日が休みだったので郵便局に3日を休まして欲しいと申し入れると、3日は忙しいので休みには出来ないので休むならアルバイト自体を辞めてほしいいと言われ、席上対局の日程を2日に変更してもらえないかと言う申し入れを三越にした事を覚えています。この時はアルバイトを辞めるつもりはなかったので、日程変更してもらえなければ、席上対局に出場出来なくても仕方ないと思っていました。数日して席上対局の日程を変更できたと連絡があり、安堵しましたが今思えば、他の席上対局の対局者の方の日程変更等して頂いたので本当にありがたい対応をして頂いたと思います。席上対局の前日に、年賀状配達を終えてから松山に向かいました。基三郎伯父の家に泊めてもらい2日の席上対局に行きました。対戦相手は女流棋士の兼田睦美女流初段でした。兼田さんの事は私より少し年下の棋士に聞いても知らない人が多いのですが、福崎文吾九段と結婚されて早くに女流棋士を引退されました。兼田さんの事を調べてみると私より9才年長で、席上対局当時は女流名人リーグA級となっていました。対局前の私の心配は戦型でした。私は対振り飛車が、得意でしたが相居飛車は矢倉以外苦手でした。振り駒で後手になれば良いのにと思っていましたが、先手になり▲76歩△34歩の出だしで▲26歩として△44歩を期待しましたが、△84歩とされ悩みました。普通なら▲66歩から矢倉を目指すのですが、その瞬間の形がセンスないと思っていたので、席上対局では指す気にならず▲25歩と指し苦手な横歩取りになり勝負所なく敗れました。終盤では大盤解説の桐山清澄九段が私の余りのボロ負けふりに、ここはこう指して粘るしかないと、手まで教えて解説してくれたのに意地でもその手は指さないと思い。そこから数手で負けになりました。やはり、席上対局は緊張するのだと思いましたし、如何なる対局の時も日頃の自分の将棋を指さなければならないと痛感しました。

この頃の将棋の勉強は、棋譜並べが主流でしたがプロの将棋は並べずに将棋ジャーナルの棋譜を主に並べていました。将棋ジャーナルはその数年後に廃刊になってしましましたが、元は関則可さん(元奨励会1級でアマ名人)が発刊されアマ強豪の将棋を中心に紹介した雑誌でした。当時はプロとアマの実力差の有る競技は相撲と将棋と言われている時代で、高校生でしたが関則可さんのプロに対しての対抗意識は雑誌の中からも感じられる程でした。当時のアマ強豪の将棋で感じた事は、独特な得意戦法を持っている人が多いという事でした。プロの将棋に少し変化を加えて、独自の特徴を持った戦法を使う事で自分の土俵に持ち込み、持ち時間の短いアマ棋戦で有利に戦おうとする発想だったと思われます。プロになれなかったのでアマチュアとして将棋を続けていくという気持ちが何となく将棋ジャーナルに通ずる所がありました。

私生活では相変わらず牛乳配達はしていましたが、家の比較的近所に配達区域が変わり、短時間で多くの牛乳を配達できるようになりました。しかも冬場は朝の配達ではなく、夕方~夜に掛けて学校が終わってからの配達で良かったので、寒い朝に起きる必要がなくなりありがたかったです。但し日曜日には2日分配るので自転車に1度に乗りきらず、途中で販売店に帰り追加分を積み直してからの配達という苦労はありました。そういう生活の中で高校3年になりました。私が高校3年になるという事は、弟2人も高校生になり、次男は宇和島東高、三男は宇和高校で誰も近所の吉田高校に行かず学費と通学の定期代が掛かる事になり、母の収入だけでは大変でした。当時の高校の学費は月1万だったのですが3人で3万円、私は自転車で通学していましたが雨が降れば電車で通ったので学費+弟2人のJR定期代で月4~5万は掛かっていたのではないかと思います。母の給料は8~9万程だったので家賃は要らなかったとはいえ、とても生活出来るレベルにはありませんでした。祖母が同居していたのでお金がない時は祖母に貸してもらったりしていましたが、祖母も無年金だったようなので、息子2人(基三郎伯父と勝秋叔父)の仕送りで生活していたので決してお金があった訳ではありません。

少し母方の実家の中村家の事を書きたいと思います。祖父(糺じいさん)は元々紋描き(着物に家紋を入れる)と言う江戸時代から続く仕事をしており確か9代目で屋号は鷹の羽矢と言いました。家紋(鷹の羽違い)から来ている屋号で明治時代までは、相当に儲けたそうですが、和服から洋服に生活様式変わってから仕事は激減したそうです。1度曾祖父から祖父が受け取った遺産の台帳のようなものを見せてもらいましたが、今のお金にすると数億円に相当する金額でした。それで祖父は紋描きの仕事が減ってからも、株や貸金業で生活していたようです。しかし株は満州鉄道につぎ込んでおり、戦争に負けた事に寄って紙切れになりました。貸金についても敗戦の、どさくさで分からなくなったと聞きました。この事も私の人生の中では大きな教訓でした。不労所得で生活しようと思った事が間違いだと私は考えています。本業がしっかりあり株やその他の事で儲けるならまだしも、株式投資を生活の柱にしようとしたので、祖父は立ち行かなくなったのだろうと私は考えています。古くから続く家なので色々な話が残っており、勝秋叔父に聞いた話では中村家は、元々京都の一条家の流れで応仁の乱の時に土佐に逃げた一条家が高知の中村逃れて、そこから来た人達がご先祖だと言う話も聞いた事がありますが、勝秋叔父以外の親戚からはその話を聞いた事がないので、その話は私は殆ど信じていません。

話は戻りますが、私が母から聞いて覚えている事は、私が高校3年に上がる頃に、基三郎伯父がお金要るだろうと100万円送ってくれたと聞きました。徳島の親戚も金銭の援助してくれ、大阪の伯母も50万貸してくれたと話してくれました。それがなければ今のように高校学費無料等の制度がないのでとても、3人が高校に通う事も難しかったのではないかと思います。当時は私たちには縁はなかった事ですが日本はバブル景気でした。私はずっと私たちの生活には関係ない事だと思っていましたが、後年、日本が景気良かったので親戚方々も羽振りが良くて助けてくれたのかと思う時期がありました。私たちもバブルの恩恵を受けていたのだと考えていた時期もありました。しかし、その話を数年前に将棋教室の生徒さんにするとそれは間違いですよ、お金があってもしない人はしないし、お金が無くてもする人はしてくるものですよと言われ私は「ハッと」目が覚めました。本当にその通りなのです。お金があってもケチな人はケチだしありない事で渋る人がいます。母方の中村家の親戚の方も、それ程お金持ちと言う訳ではありません普通のサラリーマンですが本当に気持ちのある方々なのだと思い直しました。そのお陰で今の自分があるのだと改めて思いました。

(続く)