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#24 「松山商科大学(定時制)時代 3」

2022.6.13 更新

児島有一郎

9月に入った頃だったと思います。コンビニ全店の責任者をしていた土居主任から、空港通店の売り上げが1日で3万円合わなかったので、その日シフトに入っていたバイト3人の給料から1万円ずつ差し引くと言う連絡がありました。3交代勤務なので、それぞれが受け持つ時間帯が違うのですが、1日4万5千円がしか売り上げのない店舗で3万円も合わなかったと言うのです。どう考えてもレジの打ち間違えとか釣銭間違いではありません。大きな金額が合わないのは5千円札で頂いたのを、1万円札を頂いたと勘違いして釣銭を出す事等があるくらいで、3万円も合わないのは理由が他にあります。私は主任に「弁済しますが、給料日限りで辞めさせてもらいます」と伝えました。そして給料日の約束の時間に事務所に行きました。すると空港通店にその当日勤務していた3人が待合所に揃う事になりました。それから順番に呼び出され私は最後でした。待たされる事2時間が経過して、主任に呼ばれ部屋に入ると主任から原因が解ったから、弁済しなくてもよいのでこれからも勤めてくれるねと言われました。金額が合わなかった理由を聞くとバイトの1人が、お金を抜いていた事が分かったと言われました。しかし、私は一度疑われたのでバイトを続ける気持ちにはなれず、やはり辞めると告げました。土居主任は急には困ると言うのですが、私はその日で辞めると告げていたのでもう出勤しませんと言いましたが、1週間だけでも来てほしいと言うのです。私は返事をしなかったので翌日は仕事には行きませんでしたが、バイトを辞めて3日目に主任がアパートを尋ねて来て、後4日だけ仕事をして欲しいと言うのです約束したねと強く言います。私は返事していないのにと思いながら翌日から、渋々と出勤しました。当時、バイトの先輩方に聞いていた話は、土居主任が14店舗の責任者だったので、バイトが休んだりした時は、土居主任が全て手配をしていたそうです。殆どの店舗が1人で店を回すシステムだったので、1人休むと他の店舗から人を回す事は難しく前のシフトの人が時間延長で入ったり、他店の違う時間帯の人にお願いしたり、手配が付かない場合は主任自らが入っていました。私も1度、友達と会う約束をしているのに、交代がいないので延長勤務で夜の10時迄入ったことがありました。私が聞いていた話では、人の手配ができず、前のシフトの方もどうしても帰らなければならない事情があり、延長勤務を拒否して無人コンビニになった店舗もあったそうです。主任は入れる時は自身が入っていたそうなので、数日まともに寝てない状態の時もあったと聞いた事がありました。課長がポケベルで連絡しても出ないと怒っている時もありましたが、皆は疲れて寝てるよと話していました。私が欠勤した3日間も大変だったのではと思いましたが、その時は主任の事は考えられませんでした。その残りの4日間のバイト期間に、私には今でも忘れられない事がありました。道後店に勤務していた時ですが、小さな子ども連れの20代ご夫婦が買い物に来られた時です。私は本当に嫌々仕事をしていました。自分では一度辞めた仕事をなぜしているのか気持ちの整理のついていない状態で仕事をする気はありませんでした。早く4日経たないかと思いながら仕事をしていました。レジを終えたお客様の男性の方が店を出る時に出口で、捨て台詞のように「お前愛想ないな」と言って店を出て行きました。私はハッとしました。お客様には何の落ち度もないのに、自分の内面部分の都合だけで不快な思いをさせてしまった事を今でも反省しています。嫌々でも仕事を引き受けた以上は責任を持って応対しなければならなかったと思いました。

コンビニバイトを辞めて私は友人から聞いていた、学生相談所で日雇いのアルバイトを探して行く事にしました。最低でも1日5000円が基本と聞いていたので20日働けば、前のバイトより給料は良くなります。しかし、私の考えは甘かったのです。確かに1日5000円が基本でしたが、バイトの数がそれ程ないのです。10月は5万程でしかバイト代がありませんでした。お米だけは基三郎伯父の親戚の農家から、2等米(ヒビが入ったり小粒)ならタダであげるよと言われて貰っていたので、お米には困りませんでした。2等米は農家では飼料に使うか売り物にならず捨ててしまうお米らしいのですが、水を少し多めにして炊くと、当時の私には充分美味しかったです。パラっとしているので焼き飯とかにすると合うのではないかと思います。

食べるものは最低限ありましたが、11月に入った頃は、本当にバイトもお金もなくて困っていました。実家を出る時に祖母が困ったときに使いなさいと言って持たせてくれた記念硬貨が2万円程あったのですがそれも殆ど使い切ってしまいました。今考えると勿体ないのですが、そんな事を考えるゆとりは有りませんでした。そんな時に母から荷物が届き、開けると野菜、果物、赤飯、日用品等の荷物の中に手紙と2万円入っていました。この事も私には忘れられない出来事です。本当に助かりました。これ以降も時々、食べ物等は送ってもらいましたが、お金が入っていたのは最初で最後でした。私が困っている事がなぜわかったのでしょうか、やはり母親なのだと思いました。

11月の中頃からは12月末までは堀江町に蜜柑取りのアルバイトに行く事にしました。日当は7500円だったので、友人にはきつい仕事だよと言われましたが、身体を使うことは慣れているので気にはなりませんでした。とにかく決まった期間仕事がある事がこの時は大事でした。日曜と雨の日が休みでした。年明けからも少し期間の長めのバイトを見つけて何とか凌げました。中には大変なバイトもありましたが、その話はまた次回にして、秋の中四国学生大会の事を書きます。

11月初めに松山商科大学が主幹校で中四国大会が開催されました。会場は大学の御幸キャンパスで行われました。大会参加の他大学の選手の宿泊先は、今も平和通りにあるホテル泰平でした。その手配など先輩方の苦労は大変だったと思いますが、私は大会の2ヶ月程前に大会メンバーの事で、部長の木山さんと衝突しました。1回生が3回生の部長に意見する等、他の部活では考えられない事です。木山さんが4回生のM先輩と木山さん以外で、総当たりリーグ戦をして団体戦の出場メンバーを決めると言うのです。私と市川君は1回生ながら全員参加でリーグ戦を行うべきだと部長に言いました。本当に生意気な後輩だったと思います。結局他の3回生の先輩(高橋さん・植條さん)からの助言もあり木山さん、M先輩ともにリーグ戦に参加する事になりましたが、M先輩はそれから部室に来なくなりました。次にM先輩が現れたのは大会当日でした。リーグ戦は木山さん・市川君・私と3人が当たるのを避けるように進行して3人が全勝のまま木山・市川戦があり木山さんが勝ちました。続いて木山さんと私が当たりました。木山さんが勝てば全勝1位です。意見した手前意地でも負けられない勝負でした。私が何とか勝ち。最終戦市川君に勝てば私が全勝1位でした。私は同じ1回生として市川君が緩めてくれるかなと思いながら対戦しましたが、そんなに甘くはありませんでした。結果3人が1敗の同率で並び私が3人で再決戦しましょうと言いましたが、部長に年齢順にすると言われ私達1回生の戦いは終わりました。11月に入り中四国大会が始まりました。これだけの大会を開催するのですから下準備や当日も大変だったはずですが、私にはその記憶がありません。多分、生活も大変だったので、手伝いは殆ど出来ていなかったと思います。大会の朝になり、木山さんがオーダーを決めていたと思いますが、2ヶ月近く現れなかった4回生のM先輩が来て、オーダーは俺が決めると言ってメンバー表を書かれました。大将・久保さん(4回生)副将・M先輩(4回生)三将・木山さん、四将・市川君、五将が私で、六将・高橋さん(3回生)、七将・植條さん(3回生)、八将・浜本さん?(2回生)でした。なぜ8人登録かと言うと、対戦相手の当たり読み前後にずらす事が出来るからです。順番を入れ替える事は出来ません。商大は前年の秋の大会でB級1組に降級しており、1年振りのA級でした。愛媛大学は何度もA級優勝していますが、商大はA級優勝がありません。最終戦まで、私と市川君、木山さん、M先輩が3勝1敗でチームは全勝で島根大学戦を迎えました。島根大学に勝てば商大史上初めてのA級優勝です。私と市川君が早々と勝ちを決めて高橋さんも勝ち3勝1敗で、M先輩、木山部長、植條さんを残し1勝すれば優勝となります。植條さんは長手数の美学の将棋で対局は何時も長く、勝敗はともかく終わるのは遅く良い意味では団体戦向きでしたが、将棋は苦しそうでした。私は、2ヶ月近くの私達のリーグ戦に参加せず、昨日来て(団体戦は2日制)勝手にオーダーを決めるM先輩が負ける事はないと観ていましたが、M先輩、木山さんと立て続けに敗れ、苦しい将棋を粘っていた植條さんも敗れ商大悲願優勝は出来ませんでした。これ以降も松山大学は優勝していないので、この時が中四国A級優勝に一番近い時でした。次の中四国大会からはA級で優勝に絡める事はありませんでした。この大会の個人戦はベスト8で広島大学の柿本さんに敗れ地元開催の大会は終わりました。この将棋は、相穴熊の熱戦で柿本さんに将棋雑誌の将棋ジャーナルに載せてもらいました。

数日してからの打ち上げの時の話です。当時の私は1日ご飯3合食べていました。筋トレもしていたし、蜜柑取りのバイトはきつかったのでそれくらいは普通に食べました。朝食べないので2食で3合です。おかずは1菜1汁と漬物くらいでしたが。打ち上げは三越の裏にあった、「なもし茶屋」と言う居酒屋で行われ私は、居酒屋の料理だけでは足りないので、丸い大きなタッパに米を2合入れて持って行きました。私がそれを食べていると私の後ろから体格の良い大きなオジサンが、何食べているのと声を掛けて来ました。私は居酒屋の料理だけではお腹が膨れないから家から持って来ましたと言うと、大笑いされて「私はここの経営者だが、持ち込んだ事に怒っているのではない本当にそのご飯食べ切れるの」と言うので、「お代わり出来るくらいですよ」と答えました「私はラグビー部出身だが、こんなに食べる奴見た事ない」と言われ何部なのと問われたので「将棋部です」と答えると2度ビックリされました。

(続く)