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#26 「松山商科大学(定時制)時代 5」

2022.7.28 更新

児島有一郎

花園で働きだして一番辛かった事はお酒です。吉田社長はお酒が好きでした。私は今でも強くはないのですが、お酒を飲まない日はありません。花園では仕事が終わると事務所で打ち合わせと称して麦酒を飲み始めます。仕事中でもビニールハウスでの作業の時などは、汗で出るのだから大丈夫と言われ10時休憩に麦酒、お昼休憩にも麦酒、3時の休憩にも麦酒を出してくれました。私は1回に350mlを飲むことが出来ませんでしたが、他の人は軽く500mlを飲んでいました。夏になるとビニールハウスの中は50度位になっていたので、本当にアルコールが皮膚から吹き出ているような感じでした。夏にビアガーデンに行った時は、社長が生ビール10杯飲まないと、自己負担だと言ったのでトイレと往復しながら頑張って飲みましたが7杯半で限界でした。私としては生中を一度に飲んだ量としては最高ですが、その時の参加者では15杯と14杯飲んだ人がいました。ついでにお酒の話ですが、私は今でも量は余り飲めません。家だと日本酒1合~1合半、ビールだと500mlを1本位です。外で飲めば調子が良ければ日本酒3合とウィスキー1、2杯が限度です。友人で1升呑むとかいう人には何人か会いましたが、酒豪の人と飲みに行くと、割り勘だと飲み放題の店でなければ割に会いません。15年程前から生徒とのお父さんと年に1,2度飲みに行っていました。その方は同い年なので共通の話題もあり定期的に飲みに行く事にしていましたが、生ビールを際限なく呑みます。「家ではどれくらい飲むのですか」と聞くと、発泡酒500mlを7、8本しか飲ませてもらえないので、それでは全く酔わないと言われました。その次の飲み会の時に、先日ビアガーデンでどれ位、飲めば酔うか試してみたと言われ、生中26杯飲むと良い気持ちになったと言われました。その方はそれから家では、アルコールを飲んでも酔わない事が分かったので、健康の為にノンアルコールビールにしたと言っていました。

話は戻りますが、吉田社長の話で一番印象に残っているのは天気の話です。当時の社長は30代半ば過ぎで、その10年程前に伊予鉄そごうと取引が始まったと話していました。その年の、そごうの業者忘年会はクジで席が決まりそごうの副社長(社長は伊予鉄の社長が兼務するので、副社長がそごうの実質No1だったそうです)の隣の席になってしまい話す事も出来ず黙っていたそうです。すると副社長からは何か話はないのかと言われ、吉田社長は私等が、副社長と話す話題などありませんと言ったそうです、副社長は「話題が無ければ天気の話をしろ」と言われ、「何でも良いから声を掛けてくれば後は、こちらから話をするのだ」と言われたそうです。何気ない話ですが、私の人生に大きな言葉でした。私はこれこそがコミュニケーションの基本だと思いました。

現在(2022年7月時点)将棋教室の生徒さんで大人の生徒さんは40名を少し超える位ですが、全国的には多い方ではないかと思っています。私が大人の方の将棋教室で一番心掛けている事は会話です。当然、将棋を習いに来ているのですから将棋が強くなりたいと言う事は無論ですが、教室の時間を楽しく有意義に過ごしたいとか、認知症予防で来ているとか、友人を作りたいとか大人の方は習いに来ている理由は様々です。大人教室の生徒さんは大会に出場してみると言う方は少ないので、強くなると言う事以外の理由が多いと思います。私は将棋の指導の内容以前に、今日はこの方とは何を話そうかとか考えて教室に臨んでいます。松山市は狭い地域なので、話していると必ずと言っていい程共通の話題は見つかりますし、そういう意味では私が大学生の時に沢山アルバイトをした事などは、役に立っている場合が多いです。また、そういう話題が嫌な方とは話さなければ良いのです。

花園で働きだして、決まった仕事があり収入も生活も安定した事と、お金を稼ぐ楽しさが分かって来ました。徐々にですが仕事の量が増えて行きました。休みは日曜日だけでしたが、日曜には伊予鉄そごうでイベント等があり、観葉植物や箱庭等を作っている場合の撤去作業などが日曜日の夕方から入ります。その仕事も率先して引き受けました。平日の夕方は月に3度、夜のお店(主にスナック等)の観葉植物のリースの仕事がありました。夕方通常に業務が終わると夕食を取って(食事代も支給されて)から18時~21時頃までの仕事です。時給も1000円位だったと思います。収入も徐々に増えて行きましたが、変わりに大変になったのは、やはり学校の事でした。授業日数を計算しながら、夜のバイトを入れていったので、バイトのない日は、サボらず出来るだけ授業に出るようにしました。1年間の授業数は決まっているので、何回までは休めると解ってはいても、平日のバイト終わりが少し遅くなり授業に遅刻してしまう事もあり(遅刻3回で欠席1回です)学校に行くと先生の都合で休講の事もあります。休講になると授業日数の分母が減るので休める日数も減ってしまいます。元々が定時制は、1日2講義しかないので、全部取らないと2年では卒業は難しくなっています。そうしていると夏休みになりました。夏休みになると、私は夕方の時間を使い車の免許を取りに行き始めました。どうしても仕事には自動車免許が必要でした。自動車免許には20万程掛かりました。私は生協でローンを組んで免許を取る事にしました。免許は夏休みを終わって少しした頃に取れました。補習が1回付きましたが、補習を受ける金額が4000円程と1日のバイト代に近い金額だったので、2回目を受けないようにと気を付けた記憶があります。社長が会社の作業場でなら車の運転の練習をしても良いと言ってくれていたので、軽トラックで練習をさせてもらっていましたが、ビニールハウスに突っ込んだりした事もありました。免許が取れてバイト代を1日5000円から5500円に上げてもらいました。免許が取れると車が欲しくなりました。私は元々バイクが好きではありませんでした。転倒した事もあるし冬や風雨の日は大変なので車が欲しかったのですが、バイクのローンも残っているのでどうしたものかと考えましたが、吉田社長は仕事を頑張れば車くらい帰ると言っていましたし、花園方は学生ながらセドリック、スカイラインなどの良い車を乗っていました。偶々、通り掛かりの中古車店(太郎と言う店だった気がする?)でイスズジェミニ(ディーゼル車)を18万(車検付)で見つけました。良いと思った理由は安いので私でも買えそうだと思った事でした。オジサン車でこの当時から車にはあまり興味がなかったので走れば良いと思っていました。この知識とこだわりの無さが後で後悔する事になるのですが、諸費用込みで25万にしてもらいバイクを10万円で下取りしてもらいました。バイクの基三郎伯父さんへの支払いは20万程残っていたので、10万支払って残り10万になりました。車を買うお金もなかったので残金は月1万程のローンだったと思います。この時でバイク代の支払い2万、車の支払いが1万、免許の支払い7千円、電話の権利の支払い3千円が月々の固定の払いでした。あと、金額は覚えていませんが自動車保険料が年齢条件なしだったので、1万程掛かったと思います。保険を掛けないといけないなど考えずに車を購入していました。

この時期は仕事と学校に忙しく1回生の休学していた頃のように将棋部に顔を出す時間は無くなっていました。将棋の勉強は家で空き時間に詰将棋解く程度でした。この頃に、購読していた詰将棋雑誌は、将棋ジャーナルで詰将棋研究室を解いていましたが、ある時第8問(27手詰)を家で2時間程考えて解けなかったので商大の部室で解いていました。そこへ愛媛大の将棋部で3学年上のT・Kさん(私が1年の秋の中四国学生名人・全国学生名人戦ベスト4)が2分で解きました。今なら、見える問題ならそれくらいで解けますが、当時はそれに驚くほど詰め将棋が解けませんでした。T・Kさんが愛媛県内の強豪では、ずば抜けて早かったのですが、数年後から私が詰将棋の解図に力を入れるようになったのは、この時受けた衝撃が一つの理由になっていますし、将棋教室での詰将棋重視の指導の原点になっています。

11月になり島根県で中四国大会が開催され私は、買ったばかりの車に先輩3人の4名で松江に行きました。免許取れたて、車も買ったばかりで良く乗ってくれたと思います。この大会の記憶は余りありませんが、私は前回大会での不本意な成績と態度を反省して、頭は坊主にして服装はスーツで行きました。将棋は練習していませんでしたが、団体戦の成績は3勝1敗と個人戦は予選を通過して本戦3回戦で広島大学の柿本雅之さんに敗れましたがトータル7勝2敗と前回の3勝5敗と比べると内容を含めて上出来の成績でした。(1年春季大会は、団体戦はB級でしたが7勝2敗。秋季大会はA級で8勝2敗)はやはり勝負は気持ちだと思いました。帰りの車中で、高橋先輩が私の運転はライン取りがしっかりしていて上手いと褒めてくれました。本当かどうかは定かではありませんが、島根から広島に入った頃に、車がパンクしてしまいました。スペアタイヤに交換して、もう少しで松山だと思いました。タイヤ交換は、花園で良く交換していたので慣れていました。宇品港まで着いてフェリーで松山観光港に着いて直ぐに、またタイヤがパンクしました。スペアタイヤもないので、先輩達には電車で帰ってもらい、高浜の親戚にお願いして、近所の車の修理工場の方に来てもらいました。その方は、私の車を一回りして「この車のタイヤは4本ともサイズが違うよ」と言いました。私は最近車を購入して、これで島根県に行って来たと言うと、よく帰って来られたねと驚かれました。タイヤがもっと早くパンクしていても不思議ではないし、事故に繋がる事も考えられたので、松山に帰れただけでも運は良かったと思います。今振り帰ると恐ろしい旅行でした。

(続く)