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#37 「四国日立化成住機時代 6」

2023.7.23 更新

児島有一郎

話を少し戻します。支部対抗戦の西地区大会で優勝したのが平成5年4月18日でした。その約1ヵ月前の3月14日に南西航空杯の岡山大会が開催されていました。その大会は8人のトーナメントなのですが、1回戦を松永さん(岡山代表か沖縄代表かは不明)という方に勝ち準決勝で岡山代表の岡和俊さんに敗れました。この時の大会で覚えている事は、前日の前夜祭が終わってから、ホテルに宿泊していた選手達とお酒を飲みながら早指し対局をしました。その時の愛媛代表のもう一方の篠原正幸さん(当時60才を越えた位の年齢)が、酒を吞むほどに調子が上がって行った事です。篠原さんは県支部名人・県赤旗名人経験者ですが手厚い将棋で金銀を中段や自陣に打ち付けて行くような早見え早指し将棋でした。何か読まなくても良いような将棋で、年を取っても弱くならない将棋のような気がしました。この酒を呑んでも弱くならない篠原さんからの誘惑と私の意志の弱さもあり、その後数年間、将棋大会で酷い目にあってしまいますが、その事は後述します。

この頃の大会の遠征は、高松市の玉藻城で開催されていた朝日アマ名人戦と香川県志度町で開催されていた四国王将戦、高知県の佐川町で開催されていたレーティング選手権四国大会等でした。初めの数回は日帰りで参加していましたが、その後は前日から泊りで行く事が増えました。メンバーは主に森川聖一さんと市川君、武田君で行く事が多かったです。森川さんは私より6才年上でした。元々は市川君、武田君と親しい松山将棋教室出身者ですが、私が通わなくなってからの教室メンバーなので、私は大学に入るまで森川さんの事は知りませんでした。大学入学後に大学の部室で見かけるようになり親しくなりました。森川さんは人見知りが激しい所がありましたが、親しくなるととても良い人でした。車を持っていなかったので、遠征は私の車で行っていましたが、旅費などは森川さんがまとめ役になってくれて、私以外でガソリン代高速料金を割ってくれました。おまけに宿泊する時は私の宿泊代も持ってくれるのです。運転してくれているから当たり前だと言ってくれるのですが、森川さんが参加していない時は、私を含めての高速料金を割勘にするくらいでした。森川さんは気前が良く子ども好きで私が松山将棋センターを始めた頃は、子ども達にパンやお菓子等をよく持ってきてくれました。将棋の実力は1989年に開催された第1回愛媛県民文化祭の県知事杯将棋大会優勝者でした。この大会には私は参加していませんでしたが、第10回から将棋大会の審判を務めだし、2010年からは県民文化祭の実行委員をしています。第1回大会の将棋大会の資料を見ると参加者は300人になっていました。第1回という事もあり多くの方が参加する中での優勝が森川さんの実力示しているのですが、その後は全国大会の県大会決勝で7,8回敗退する勝負弱さもありました。私も練習将棋ではかなりの局数を指しました。現在の様にネット将棋は無い時代でしたから、練習するとなると相手を探すのが大変な時代でした。県代表クラスになると県内に大勢いる訳でもないので、将棋道場で同レベルの方と出会うと1日中同じ人と番勝負を繰り返していました。森川さんとは数百局は指したと思いますが、戦型はいつも同じです。森川さんの四間飛車美濃囲いに私は居飛車穴熊です。森川さんの四間飛車に関する定跡は完璧と言える程の知識でした。特に急戦に関しては何を聞いても知っていましたが、終盤に難があり私が勝つ時はいつも逆転勝ちです。大会での勝敗は互角位でしたが、準決勝決勝で当たると私が勝っていました。練習将棋ではどちらかが連勝連敗をする事が多く私が勝ち込んだ時は、「同じ戦法ばかりだと面白くない、違う戦法を指さないと自分の為にならない」と言ってきましたが、森川さんも同じ戦法ばかりです。私が必敗の将棋を粘って逆転すると、「投了しないといけない将棋だ」と言ってくるので、嫌な気持ちになりますが、他に対戦相手もいないので道場が開く時間から閉館まで十数局指し続ける事も良くありました。この頃の数年間の大会で一番当たったのは市川栄樹君でした。同じ大会に数多く出ているという事が理由ですがそれにしても多かったです。途中までは対戦成績を付けていましたがある時から記録を取らなくなってしまいました。対戦成績は私が少し負け越しているくらいですが、成績の特徴はどちらかが連勝連敗を繰り返す事でした。私が6連勝した時に「もう市川君には負けないだろう」と内心思った事がありますが、その後8連敗しました。その繰り返しで大会では45局以上対戦しました。私が記録していたところまででは私の20勝25敗の成績でした。

当時、私は中学生の時に松山将棋教室で小遣いを貯めて買った銀杏の6寸盤を使っていました。盤は厚みがあれば良いかと思っていましたが、1度、友人宅に泊まった時に本榧の6寸盤を見てその美しさにビックリしました。50万したと聞いて私はそれから本榧の厚みのある将棋盤が欲しくなりましたが、当時の私には買えませんでした。それから私は仕事で、顧客の手伝いや下請け業者の工事の手伝いをして昼食や夕食をご馳走になった時は、自分で払ったつもり食べたつもりと思い。小銭を貯金する事にしました。2年程で20万程貯まり、その頃に松山でメグミ堂と言う大阪の将棋盤の業者さんの展示会が、愛媛共済会館で開かれました。私は将棋盤用に貯めていたお金とは別の貯金も下ろして展示会に行き、ほぼ四方柾の5.8寸の中国榧将棋盤をその場で購入しました。5万円の4本足の桑駒台と一舟作柾目彫駒源兵衛清安を付けてくれて45万でした。高い買い物でしたが、当時としては良い買い物だったと思います。中国榧は乾燥期間が短くひび割れする事が多いのですが、四方柾という事もあり歪みはあるものの今でも綺麗な状態で満足出来る買い物だったと思います。但し当時は国産榧の値段が高かった事と、バブル直後でも国産の最高級榧は将棋盤が1000万、碁盤だと3000万と言われていた時代です。今のように畳で将棋を指さない時代では、値段はかなり下がっています。大会で優勝した後で、市川君に将棋盤を買った話をすると「そんな高価な将棋盤を買う奴には勝てんな」と言われました。大山康晴15世名人は「強くなりたかったら、良い将棋盤駒を使いなさい」と言っていました。その時は意味がわかりませんでした。自分で良い物を買うとその分使って練習するからかなと思っています。

平成5年は、私は年初から大会での成績が良く、グランド王座戦優勝、南西航空杯県代表、月例会の王座戦優勝と3週連続優勝した事がありました。森川さんにはこれだけ勝てるのは一生で最後だと言われましたが、勢いに乗っている私は内心そんな事は無いと思いましたが、森川さんの言う通り3週連続優勝はその後ありません。平成5年は前半調子が良かったのですが、後半に入り下降線になって行きます。5月に竜王戦の県大会があり、調子の良かった私は優勝を狙っていましたが、大会の2日前の金曜日に仕事をさぼり、午後から流田義夫君のマンションに行き夕方まで8局練習将棋を指しましたが結果は全敗でした。内容はどれもギリギリなのですが、最後が勝ちきれません。流田君が強かったのですが、私は自信を無くしてしまいました。2日後の竜王戦の大会では、初戦(1回戦からトーナメントだった)を勝てば流田君と当たる事になりました。お互い勝って2回戦で当たりました。私は2日前に8連敗していましたが、そろそろ勝てるのではないかと気楽に考えていた事と、2日前は攻め過ぎたと反省して日頃の将棋とは違う受け重視を心掛けて対局に臨みました。珍しく私が入玉を果たし、その後入玉を目指す流田君を仕留め勝つ事が出来ましたが、次の3回戦は森岡正幸さんでした。森岡さんの陽動振り飛車に私が居飛車穴熊で、苦しい将棋でしたが、最後にチャンスが来ていました。しかし、相手が森岡さんという事もあり自分の中に諦めがあったせいでこの将棋を敗れてしまいました。森岡さんには練習将棋だと結構勝てていたのですが、大会では、この後も3年間は勝つ事が出来ませんでした。私は森岡さんと一色さんに大会で15連敗以上したと思います。この時期に私が優勝出来た大会は2人が出場していなかったり、2人が他の人に負けたりしていた時だけだったのです。翌月に開催された名人戦では予選を通過して、決勝トーナメントの抽選をする時に、既に2枠しか残っていませんでした。1枠は2年前の県名人の山口正彦さんで私が苦手としていた相手です。もう1枠は竹中保さんと言う方の隣でした。私は当時、竹中さんを知らず私が竹中さんの横を引くと山口さんが、「竹中さんは強いぞ、俺と当たる方が良かったのに」と言ってきましたが、聞いた事もないのに、そんなに強くはないだろうと思って対戦しました。相手の三間飛車に私の居飛車穴熊で私が勝ったのですが、山口さんが驚いて竹中さんは読売日本一のベスト8で、過去に県名人を数度獲得している実力者だと教えてくれました。大会に出場されたのが久しぶりで私が知らないだけでしたが、1度勝った事が自信になったのと、竹中さんが振り飛車党だった事があり、その後も大会では数度当たりましたが、負ける事はありませんでした。その時の名人戦は次の対局で一色厚志さんに敗れ、そこからその年の大会成績は下降線に入って行きます。平成5年の大会成績は70勝41敗、優勝5回、勝率0.631でした。

(続く)