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#52 「コラム特別編 子ども時代~松山坊っちゃん支部現在迄」
全国支部対抗戦に関する話①

2026.5.4 更新

児島有一郎

全国支部対抗戦 優勝県一覧

東地区 西地区
1 埼玉 12回 1 愛媛 6回
1 東京 12回 1 広島 6回
3 静岡 5回 3 三重 5回
4 茨城 4回 3 兵庫 5回
4 北海道 4回 3 愛知 5回
6 秋田 2回 6 岡山 4回
6 青森 2回 6 大阪 4回
6 群馬 2回 8 福岡 3回
6 神奈川 2回 8 京都 3回
6 千葉 2回 10 香川 2回
6 山形 2回 10 滋賀 2回
12 福島 1回 10 富山 2回
12 栃木 1回 13 和歌山 1回
12 宮城 1回 13 佐賀 1回
12 長野 1回 13 福井 1回
13 石川 1回
13 鳥取 1回
13 徳島 1回

令和8年3月1日現在

上記の表は全国支部対抗戦東地区西地区大会の、過去の優勝回数一覧です。西地区は愛媛が広島と並びトップです。2023年に広島に優勝されて並ばれました。今年も4月18、19日に西地区大会は神戸市で開催されます。今回このコラムを番外編として書くのは、今年の松山坊っちゃん支部のメンバー(丹生谷洸樹・石川喜大・堀井創平)に期待が出来る事と、私が1年半コラムを書いていなかったので、今までに書いた内容を忘れてしまい少し脱線した所から話を書き進めようと思ったからです。

支部対抗戦に措ける私の最初の記憶は、中学生の時に通っていた松田幹雄準棋士五段(現指導棋士)が主宰していた松山将棋教室の、日本将棋連盟支部であった愛媛支部の事が最初です。1979年の第8回大会で、愛媛支部が西地区大会で優勝、メンバーは南谷誠一郎さん、松田耕治さん、森岡正幸さんの3名でした。当時の私は、松田耕治さんと森岡正幸さんは知っていましたが、南谷さんは教室の名札で見るだけの存在でした。しかし、その強さは伝説的に語られていました。優勝メンバーは3人とも愛媛大学将棋部でした。愛媛大学が、学生王座戦(大学の7人制団体戦)に中四国の代表校として出場した時に、当時大学最強校だった東京大学に4勝3敗で勝った時に、東大の主将だった谷川俊昭さん(谷川浩司17世名人の兄)に勝った事が伝説の様に語られていました。南谷さんと私の接点は、私が25才の頃出場した香川将棋フェステバルで1度対戦した事くらいです。その頃の南谷さんは将棋から少し距離を置いていた感じもあり、勝たせて頂きその大会では、準決勝で香川の強豪白井厚男さんに必敗の将棋を投了して頂き優勝した記憶があります。白井さんが投了した理由は、勝っても決勝戦はプロとの席上対局と時間が被って対局出来ないとの理由でした。松田耕治さんと森岡正幸さんは、2人とも愛媛を代表する実績十分の強豪で、今でも同じ松山坊っちゃん支部としても交流のある方です。当時の事を書かせて頂くと、松田耕治さんは仲間内では永らく無冠の帝王と呼ばれていました。愛媛新聞の夕刊には当時、県内のアマチュア将棋が紹介されていましたが、観戦記を書いていた永井兼幸さんの文章には、松田耕治さんが愛媛県内では最強ではないかとも書かれていました。当時、数ヵ月に渡って開催した愛媛県内の強豪二十数名による総当たりリーグ戦で優勝した事が書かれていました。森岡さんの事では、本人からも何度も同じ話を聞きましたが、支部対抗戦の西地区で優勝すると四段免状が貰えます。現在はベスト4以上と少し緩くなっいます。森岡さんは優勝したので四段免状が貰えると思っていたのに、一緒に行っていた松田幹雄先生が、「森岡君は、二段でお願いします」と言うような事を言ったので二段免状しか貰えなかったそうです。しかし、それで発奮して約2ヶ月後に行われた、アマ名人戦の愛媛県大会に優勝して四段免状を獲得して四段の力がある事を証明し、その後の活躍は愛媛県で最強のアマチュアと言える実績を残しています。

愛媛勢の支部対抗戦西地区大会の、2度目の優勝は1987年の宇和島支部です。私は松山の雄新中学を卒業して奨励会受験を諦め、実家の北宇和郡吉田町(現宇和島市)に戻り宇和島南高校に進み、宇和島支部の支部道場であったと金クラブに通っていました。と金クラブの月例会は成績の下位2名と上位2名の入れ替え制を採用していました。前にも書いたのですが、高校入学してと金クラブ初参加の記念大会でS級(最上位クラス)3位に入賞しましたが、その後は高校卒業するまで一度も入賞がありませんでした。しかし。S級から陥落する事もなく、指し分け程度の成績で終わっていました。これは私に、戦型による得意と苦手がハッキリあった事が理由です。 

私が高校を卒業して1年後の春に宇和島に帰省した時に、と金クラブに行き宇和島支部が優勝した事を知りました。メンバーは斧寛志さん、山口正彦さん、渡辺教光さんの3人です。私の高校時代の対戦したイメージでは、3人の中では斧さんが一番強かったと思います。しかし、私の対戦成績は10局指せば4勝6敗くらいでした。山口さんには相性が悪く高校時代、一度も勝てませんでした。30連敗以上した記憶です。戦型は必ず得意の相穴熊になるのですが、最後力負けする感じです。その他の戦型は指した事がありませんでした。渡辺教光さんは私が6勝4敗位の感じですが、力的にはもっと私が勝てそうだと思っていました。しかし、戦型が私の苦手な相居飛車の相掛かりになる事が多く、渡辺さんの経験値が勝っている感じでした。

この優勝した時の事で、覚えている事は、当時の西地区大会は、予選からの勝ち上がりは1ブロック1チームでした。7ブロックから7チーム予選通過して、ブロック2位チームから成績の最上位チームが繰り上がり、宇和島支部はブロック2位の最上位で本戦トーナメントに進出して優勝しました。一番成績の奮わなかった渡辺さんが決勝で勝ち、調子の良かった人が決勝では負けての2勝1敗での優勝だったと記憶しています。渡辺教光さんは、私にその時の話を何度もしてきました。今思うと四段免状獲得はそのくらい嬉しい事だと思います。当時は四段免状を獲得するには、県名人獲得、支部対抗戦の西地区大会優勝、支部名人戦の西地区ベスト8くらいしかありませんでした。

愛媛県勢3回目の優勝は、1993年の松山支部です。メンバーは流田義夫さん、西尾憲資さんと私です。私は団体戦が初出場で、全国大会の予選とは知らずに県大会に参加しました。大会当日、会場で優勝したら神戸と聞きましたが、勝ち負けの事を考えずに指せた記憶があります。県大会は予選、決勝まで6試合でした。三将だった私は初戦敗れましたが、その後5連勝で5勝1敗。大将の流田義夫君は4勝2敗、副将の西尾憲資さんも4勝2敗だったので、県予選から2勝1敗勝ちのギリギリの戦いでした。西地区大会は、予選3試合で大将の流田君が2勝1敗、副将西尾さん2勝1敗、三将の私が3連勝でした。流田君が優勝候補の名古屋支部と当たった時に、名古屋の大将は東海王将のタイトルを持っている強豪と聞いていたので、その一番を勝ったのが大きかったです。決勝トーナメントは初戦が佐賀将棋センターに3―0勝ち、準決勝の加賀百万石支部は2-1勝ちで決勝の広島将棋同好会支部と当たりました。前年も広島将棋同好会支部は準優勝で、その時のメンバーは当時小6の山﨑隆之九段と当時小5の片上大輔七段でした。山﨑九段は奨励会入りして、この時は小学5年生だった片上七段と広島大学将棋部の2人でした。流田君はこの時は愛媛大学の学生で、広島の呉市から松山に来ていて広島の大学生メンバーとは、面識があり自信がありそうな感じでした。私の相手は片上さんでした。2人がここまで予選本戦全勝で当たりました。片上さんの無理攻めで私が優位に立ちましたが、受けを誤ってからは粘る事が出来ず、早めの投了となりメンバーには申し訳なく思いました。しかし、この将棋を片上七段が数年前に支部ニュースで紹介して頂いた事は嬉しく思い出になりました。私は敗れましたが西尾さん、流田君が勝ち松山支部の優勝となりました。最後は他力でしたが優勝して四段免状を修得出来た事が本当に嬉しかったです。

愛媛県4回目の優勝は翌年の1994年でした。私達が優勝したので、出来たばかりの愛媛囲碁将棋会館支部主要メンバーが自分達でも優勝出来るはずと出場しました。愛媛囲碁将棋会館支部の事はコラム本編でも書いていますが、後に松山坊っちゃん支部と合併しました。メンバーは大将T氏、県大会で大きな実績はありませんが、真剣で鍛えた強い将棋です。副将はO氏、前年の赤旗名人戦全国大会でベスト4に入っています。三将はK氏、愛媛大学在学時に学生名人戦ベスト4に入っています。全員が全勝という成績ではありませんでしたが、予告優勝に近い感じで愛媛の4回目の優勝と成りました。

(続く)